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CHRONICLE/元町歴史散歩

最終話 大正活映と谷崎潤一郎大澤 秀人

今回は大正九年から十一年(一九二〇~二二)末にかけていまの元町プール下にあった大正活映とそれに関わる谷崎潤一郎の話である。

大正活映(大正活動映画改め)は略して大活とも呼ばれた。設立したのは、横浜に本社のあった東洋汽船の重役・浅野良三らである。社長には小松隆、撮影所総支配人兼監督にはハリウッドで映画の修業を積んだトーマス・栗原が就任した。設立の発端は、栗原が米国滞在中「日本人排斥運動」に遭遇したことにあった。かれはその原因が日本や日本人の真の姿が米国人に正確に伝わっていないからだと考え、それを払拭するには当時流行の先端を行っていた「活動写真」(映画)を通じて改めて日本の美しい風土や精神(日本古来の道徳、武士道、大和魂)を描いて見せるしかないと考えた。

大正七年(一九一八)来日した栗原は多くの有力実業家に会ってそのための支援を訴えた。しかし、そのときは理解を得られず、翌年も来日。翌々年になってようやく浅野らの支援の取りつけに成功したのである。

新感覚の映画づくりを目指す栗原は、たまたまそのころ谷崎潤一郎が雑誌に発表した「映画芸術論」を目にした。そこには「現代生活から遊離した映画、(歌舞伎調の)女形(おやま)が登場するような映画は廃止すべきだ」といったことが書かれていた。わが意を得たりと栗原は、早速、谷崎のもとを訪れ、大活文芸部顧問への就任を要請した。

当時、谷崎は若干三十五歳。小田原に居を構え、創作活動を華々しく展開する一方、千代夫人を佐藤春夫(詩人)に譲渡する問題を抱えて、身辺多忙を極めていた。にもかかわらず映画に強い関心を持つ谷崎は、その申し出を受け入れ、千代夫人を小田原に残したまま、自らの住居を横浜(本牧宮原八八三番地)に移してこれに参加した。

大活の本社は山下町三十一番地に置かれ、撮影所は山手外人墓地下の三角地帯(地番は当時山手町七十七番地・現在元町一丁目七十七番地)に新たに建設された。墓地から見下ろせる位置にガラス張りのスタジオと、それに並んでの細長い簡素な建物の中には字幕室、編集室、資材室、俳優部屋、化粧室などが造られた。スタッフは総勢五十人ほどで、監督を除いてはすべてが素人といった陣容だった。

大活第一作は、谷崎潤一郎原作「アマチュア倶楽部」(当初の題は「避暑地の出来事」)であった。鎌倉由比が浜を舞台にプレイボーイとおてんば娘が展開する米国風コメディ・タッチのもので、主演女優は谷崎が千代夫人の実妹せい子を引っ張りだし、葉山三千子の芸名で出演させた。せい子は、当時の谷崎のお気に入りで、本牧の家に一緒に住み、のちの谷崎作品「痴人の愛」のモデルともいわれる。

栗原監督は、さすがハリウッド仕込みだけあってこの映画にそれまでの日本映画にはない数々の斬新なアイデアを持ち込んだ。「音楽効果」をふんだんに取り入れたり、水着姿の女優を登場させたりしたのも、栗原のアイデアだった。

こうして完成した第一作は、同年十一月、東京・有楽座で封切られた。冒頭字幕に「原作谷崎潤一郎」と出たすぐそのあと、谷崎本人が大写しのシルエットで登場、マッチをすり、煙草に火をつけ、鼻から口からもうもうと煙を吐き出す谷崎の茶目っ気ぶりに観客はやんやの拍手喝采。劇が始まると、今度は女優の葉山三千子が水着姿でさっそうと登場する。それまでの日本映画で和服姿の女優しか見たことのなかった観客は、脚線をあらわに豊潤な姿を惜しげもなくさらす葉山を見て度胆を抜かれた。

こうして第一作は、興行的にも成功を収めたが、つづいて製作された四本の作品は、折からの世界大恐慌の影響をまともに受けていずれも興行的には振るわず、大活は設立わずか二年余にして松竹キネマに吸収され、元町から姿を消したのである。

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