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CHRONICLE/元町歴史散歩

第3話 唐人お吉が元町で暮らした日々(二)大澤 秀人

ほぼ十年振りに横浜で再会したお吉と鶴松は、その夜から元町五丁目にあった「下田長屋」で新婚生活を営むようになる。

この「下田長屋」について、作家十一谷義三郎は、随筆「唐人お吉を語る」(昭和四年刊)の中で、「鉱山長屋に似たバラック風の建物だったと横浜古老談」と記しているが、おそらく、それは安政七年(一八六○)、幕府が外国人居留地をつくったとき、元町との間を隔離するための運河(堀川)の造成に当った労働者(土方)住居用に建てた長屋と思われる。このときは各地から大勢の出稼ぎ労働者が集まったが、その中でも下田からの出稼ぎが多く、それらの人たちが住んだことから「下田長屋」や「土方坂」の名がついたものと思われる。

「長屋」にお吉を迎えた鶴松は、翌日から仕事に一層精出すようになり、お吉はお吉で、女房らしく髪を丸髷に結い、好きだった酒も断って、鶴松の帰りを待ちながら家事にいそしんだ。

このころ、いまも五丁目にある小料理屋石川屋は米屋を営んでいて、お吉もしばしばこの店を訪れている。店には女主人門倉知加(一八四三~一八八二)のほかに小川かめ(一八四九~一九二三)もいた。二人ともお吉(一八四一~一八九一)と年齢が近いせいもあって、何かにつけてお吉の身の回りの相談に乗っていたらしい。特に、のちに「石川屋」が米屋から酒屋に転じたときの初代「石川屋」の女主人となったかめは、姉御肌で面倒見がよく、お吉より年齢が八歳年下であったにもかかわらず、馴れない土地でのお吉を思って、細かく気を配り、いろいろと世話を焼いていたらしい。お吉が当時坂下にあった髪結いの店を手伝うようになったのもかめの紹介があってのことと思われる。鶴松の帰りを待つあいだ、お吉はこの店で髪結いの腕を磨いた。お吉がのちに下田で髪結いの店を始めたのもこのときの素地があったからである。

かつては「唐人お吉」の名であれほど周囲から蔑まれていたお吉も、ここではごく普通の女(ひと)として迎えられ、平穏で、こころ休まる日々を送ることができた。

こうして足掛け四年の歳月が流れた。やがてお吉も鶴松も望郷の念にかられるようになる。明治四年(一八七一)、二人は意を決して下田に戻った。もともと大工だった鶴松は自分で家を建て、そこでお吉は元町で習いおぼえた髪結いの店を開いた。「お吉の店に行けば、横浜や長崎で流行の髪型〈唐人髷(まげ)〉を結ってもらえる」というので女たちは押しかけ、店は繁盛した。が、それも束の間。お吉が村に戻ったことを知った昔の馴染み客がお吉の「新内明烏」を聞きたいと酒席へ招き、最初は躊躇していたお吉もやがてその席へ顔を出すようになり、勧められるままに酒を一合、二合……五合、一升と飲み進み、そのうちに酒乱の気味を呈するようになる。そして、それがもとで鶴松との間でいい争いが絶えなくなり、ついに二人は喧嘩別れすることになる。

お吉は、三島で再び芸者となり、鶴松は再婚後、急死。二年あまりで下田に戻ったお吉は、再び髪結店を開くが、四二歳になったとき、地元の船主から小料理屋兼遊女屋「安直楼」の経営を任されることになる。ところが、女将(おかみ)の身でありながら、客前で大酒を呷(あお)り、酒乱と化すお吉の姿を見て、客足は次第に遠のき、店は二年で廃業に追い込まれる。

それからのお吉は、自暴自棄となった。一人朝から酒を呷り、やがて、精神も肉体もぼろぼろになり、半身不随となって、その日の暮らしにも事欠くようになった。村中をもの乞いして歩くお吉は、そのうちに疲れ果て、ついに明治二四年(一八九一)三月二七日、豪雨の中、稲生川上流の門栗ヶ淵に身を投げて、五一歳の生涯を閉じることになるのである。

こうして、改めてお吉が辿った人生を見てみると、時代の波にもまれながら必死に生きたお吉にとって、生涯唯一心休まる日々が送れたのは、元町で過ごしたあの数年間しかなかったのではないかと思われるのである。

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